「ある」と、「ない」。

佐々木酒造

3日ほど前から鳥取に帰っております。

帰る。戻る。行く。来る…日本語ってムツカシイねぇ。

我が家の前には、この時期かならず蛍が姿を現す。

いつもなら、1匹2匹…「今年も会えたねー」くらい。たくさん蛍を見るには、車で数分の場所まで出かけていたのだけれど今年はどうも様子が違うみたいだ。

玄関を開けて家の前に出れば、畑から道にせり出す勢いで蛍が乱舞する姿が見られる。

ツイーッと飛んでは消え。飛んでは消え。

上に、下に。一見自由でありながら規則的な光のリズムは、幻想的という言葉ではおさまらないほどの、畏れにも近い美しさを醸し出している。

これがまた、人の気配を感じるといっせいに鎮まってしまうのだからおもしろい。

うしさん(愛猫)ならなんら問題ではないのだ。ヒトが近づくと、どんなに足音を消しているつもりでも、しばらくのあいだ光のダンスは休憩に入ってしまう。

それほど彼らにとってヒトというのは、獣とはまた違う恐ろしさを放つ生き物なのだろう。

こちらに発つ直前、大阪のなじみのお店に立ち寄り、ウイスキーをいただきつつマスターと話をした(マスターというワードに口がむずがゆくなる性分なので、Kさんとします)。

鳥取砂丘の話題になったものの、私が言えることといえば「ン十年鳥取に住まいつつ、すみません。砂丘に行ったのは1回、2回だけ。そのうち1回は肥満児だった幼少のころで、馬の背(砂丘の急斜面)に投げ出されて這い上がるのが地獄のようだったんです。大人になってからの思い出といえば、クリスマスイルミネーションが激寒で、砂たまご(砂丘の砂のなかで加熱したゆで卵)がイマイチだったなぁってことくらい」そんなとこだ。

そんな私に、Kさんは言う。

「あぁ、うちにも各県からのお客様いらっしゃるんですけど。みんなそう言いはるんですよねぇ。金沢とか山口とか…。何がって聞いてもみんな、うーん…って。何もないっておっしゃる(笑)」

えー。金沢なんて、めっちゃいいところだったのに。駅はきれいだし、どことなく街並みに風情があって。でも決して華美ではなくて…。金沢おでんも絶品だったのに。

「大阪もねぇ、ないでしょう?特に」

えーー。大阪こそなんでもあるじゃないですか。USJに道頓堀、梅田、甲子園…あ、これは兵庫か。

あぁでも、そうか。

そこに居る人にとっての「ある」と、そこへ足を運ぶ人の「ある」は、きっと違う。

私なら、もし、大事な人が鳥取へ来るとしたら…薄暗闇のなかで舞う蛍を見て、って言う。

夏には海岸線の向こうをイカ釣り舟の灯りがいっせいに照らすの。夕空はオレンジじゃなくてピンク色で、夜は圧倒的に、地上より空の存在感が大きい。

昼間の熱が残るアスファルトの上に寝転がって、星空に吸い込まれそうなあの感じを味わって。美味しいものはそうだな。道の駅で買ったらいいよ。魚も野菜も、奥様方がつくるおこわも美味しいよ。

何もないこの土地の、ここにしかないものを感じて帰って。

きっと、そう言う。

そして、私にとっての大阪の「ある」は、私に美味しいものを食べさせてくれて、教えてくれて、声をかけてくれて、いろんな縁をくれたそんな「人」そのものなんだろうと思う。

あぁまた、いろんな人たちに会いたくなっちゃったなぁ。

蛍は成虫になるまで1年かかり、2週間の限られた間に命を繋ぐという。ヒトはすぐそれを人間の寿命に換算しようとするけれど、蛍たちは長いも短いもなく、ただ与えられたその日にすべきことをしている。それだけのことなのだろう。

ヒトだってわからない。平均寿命なんてあくまでも平均で、寝て起きたら朝が来るのが当たり前ではないことを、そんな毎日を当たり前に送るのが、どんなに難しく困難なことなのかを、ここ数年で多くの人が思い知ったはずだ。

だからこそ、自分の心が欲することに目を向けて生きていたいと思う。

そうね、とりあえず… 今日飲みたい酒を、飲むか。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA